2011年08月03日

牛バブルと感謝とリアル

安愚楽牧場の支払不能問題を東京電力が負担するのは
いかがなものか・・・

その是非をとやかくいう 論点の持ち合わせがないが

もともと、牛の債権化、証券化というのは危険をはらんでいた
という専門家もいるそうである

先物で小豆やとうもろこしの販売権が取引される
不安定な収穫に対し、
農家にとっては不作でのリスク回避につながる制度である

安愚楽牧場の場合には 5-7%の還元をうたっているが
オーナー制度なので、牛が死ねば
飼い主の配当はゼロで購入代金はパーである

そもそもこのモデルはあやうい成立なのではないだろうか
たとえば
牛が伝染病にかかったら 今回と同じことがおきるであろう

原発の事故は引き金のひとつには違いないが
別の原因でも起こりえた現象である
たとえば、ユッケで死者が出た問題も
牛肉の価格の下落の原因である
さまざまな理由で資金ショートが起きたのであろう

そういったリスクと引き換えに配当金利を得ていたのであるから
リスクがあっても補填するのはどうだろうか・・・

もともとこういった 物権の債権化が発祥したのは
17世紀のロンドンであった

コーヒーショップに集まる人々が 
株式会社をつくり、保険制度や証券取引をつくった

当時 戦費のためイギリスの国庫が空になったとき
アメリカの土地を担保に回して債権化し国庫が潤った

航海術の向上が一般的になるまでになると
アメリカに行くことができる
自分の土地はあるのか・・・

じつは架空の土地を作って配当することができるので
アメリカに行って確かめさえしなければ この制度は無尽蔵である

南海泡沫事件は そのバブルがはじけた結果であることは
このブログでも かつて ふれた

コーヒーショップにいたダニエルデフォーが
「ロビンソンクルーソー」の中で
やたらとデータを重視する

たとえば 船の描写で
マストの長さや、幅 その先端付近のシミまで言及するのは
リアルなものを求めたのである
この書き方は皮肉でもある

リアルなデータを集めても 虚しいのである
それは 言葉と物(フーコーの仕事)の世界である
データとリアルものとの差異などとっくに気づいていたのである
普遍言語運動のあとの展開から 言葉が恣意性をもつこと
すなわちシニフィアンとシニフィエの結びつきが無理やりであることなど
とっくに気づいているのである

循環させること 流通を作り出すこと
そこに金脈の元を見出したのだ

デフォーは 編集者でもある
そして、彼のつくったもの 株、貨幣、保険・・・
リアルなデータを集め提示し 循環させる
そこに真実があるのである
ショートするまでは
データと真実の一致など必要ない

しかしこれは大事な概念でもあるのであって
マニエリスムといった技法にもつながることについて
このブログでも再三ふれているところである。

ともかくも、
事物と事物の結節点(橋)
橋を橋でつないでいく、そして循環が生まれる
このつないでいく作業は 
デリダの脱構築(ずらしていく)の作業にも似ているだろうか

もともと脳の認識だって モナド的な単位でみれば
刺激(パルス)をシナプス(橋)でつないだ総体である

こうなるとすべてが不確かに思えてくる

さて
牛肉の話にもどそう

安愚楽の牛のオーナーも
牛の真価などに興味はない

牛が生み出す利益のみがリアルなものである

そして、牛の値段(データ)そのものも
牛の真価など表してはいまい

たとえ放射能に汚染されていない牛であっても
風評というデータのせいで牛の価値は下落するのである

循環ついでに面白いことを思いついた

Facebookの「いいね!」の話である

こんなことを投稿する

「わたしは妻に結婚記念日にプレゼントをしたい」

「マラソン大会でがんばった息子が
こんなものを欲しがっているので是非記念に買ってあげたい」

この投稿に「いいね!」した人から
一率 100円徴収して 投稿者に寄付する

すると・・・
ひとりひとりの負担は100円なのに
100人のいいね!で 1万円が集まる
という仕組みはどうであろうか・・・

このしくみ が健全に思えてならないのだ

たとえ その金集めのための詐欺まがいの投稿
がはびこるようになってもである

なぜか

安愚楽の場合には
牛がかわいくて
オーナーになったのでなく利益配当のためである

それに対して この「いいね!」は
現実利益という見返りを求めないからである

しかしこの結婚記念日代の一部を負担したことについては
精神的なそれはあっても見返りはない
それは奉仕といえる行為なのである

その見返りは投稿者が真実なら 感謝が返ってくるであろう
感謝がやってくることは 人生の中でとんでもない利益である
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2011年06月01日

豆腐とBBクリーム


助六といえば歌舞伎の十八番のひとつである
曽我兄弟のあだ討ちの話を江戸時代風に仕立てた

吾妻橋のたもとの花川戸公園には 歌碑がある

助六にゆかりの雲の紫を
     弥陀の利剣で鬼は外なり


助六は江戸時代のヒーローである
粋で美男で、キップがよい
遊女にもよくモテた

今日で言う韓国スターのような人気であったろう

歌舞伎の
助六所縁江戸櫻では、話はそこまでいかないが、
もともとは
小糸が助六の後を追って墓の前で心中する話であった

女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る

という川柳の時代にこんないい太夫がいるのかと
瓦版になったのが話の元である(落語にもなっている)

歌舞伎の台本では
小糸は揚巻太夫という

助六寿司 というのがあるが
稲荷寿司(揚げ)と巻き寿司が一緒に弁当になっている
なので 揚巻 ということだ
助六の愛人だったことから 名づけられたとか

揚巻貝という貝の語源も
2本の水管をたらした様(さま)が花魁の髪型に似ているところから
名がついたという

この貝は、わたしなんかはマテ貝とよく間違うが
有明海にたくさん採れた(過去形)貝である

甘辛い醤油で煮てこれを寿司ネタにしたりするが、
地元の人は、塩茹でをたべる 素晴らしく美味という
30個も一度に食べるひともいる

絶滅させてしまったのは 埋め立てが原因である

いま流通しているほとんどが韓国産だという

助六の
弥陀の利剣とは
邪悪なものを打ち破る仏法や智慧のこと
である

もちろんここでいう剣は比喩に過ぎない
これを武力の正当性と戦時には受け取った
大衆の思想操作に利用されてしまったのである

永井荷風は、下町のわび住まいを見て
たくさんの迷信に貧民がすがる姿を温かい目でみ、
当時の政府やマスコミに毒づいている

レ・ミゼラブルのミリエル司教のような心境なのであろう

迷信といっては叱られるが、
簡単にいうと
稲荷に油揚げをあげたりすることである

荷風はこれを淫祠といった

御厩河岸の榧寺の飴嘗地蔵に飴をあげて虫歯を治そうとしたり
小石川富坂の源覚寺の閻魔に蒟蒻をあげて目を治そうとしたり
することである

私は、政府に敵対する者ではないが、
有明海を埋め立ててしまうのは納得がいかない

そして、現在の民衆の淫祠を利用し
特保の許可、認可をやたら おろして、
薬を飲ませたような錯覚に陥らせるのは
甚だ怒りを覚える

ちょっと興奮してしまったようだ

私は、荷風やミリエル神父のような大人物ではない
のでこの辺でとめておこう

閑話休題

荷風があげた 淫祠のひとつに
百人町の鬼王さまに豆腐をあげるとある

肌によいとのことである

鬼王権現は、日本の神(月夜見命、大物主命、天手力男命)であるから
見当が外れていることはわかっているのだが

なぜかBBクリームを思い出してしまった

いや、権現は平将門である
高麗馬にまたがって強かったという
朝鮮からの帰化人の人たちが所縁の
武蔵で挙兵した将門公なら 

この想起もあながち いい線をついているのかもしれない
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2011年05月15日

マーラーの恋煩い

ウィーン19区の一角にハイゲリシュタット街がある
1683年のウィーン二次包囲のとき大虐殺があった血なまぐさい場所である
5000年前からこの地は聖地とされてきたようだ
18世紀には温泉地として 19世紀には避暑地として富裕層に人気であったらしい
そして音楽ファンにとってこの街はベートゥーベンが遺書を書いた場所である
いまは ベートゥーベンハウスが建っている。
黄色いバロック調の建物だ。

バロックから古典へそしてロマン主義へ
時代はそのように三角関数のグラフにも似た志向を示して変遷する

バロックの時代には即興音楽などもよく行われたようだ
それが古典派によって落ち着く
古典派は、衒いが抜けて、ゆったりとした調べを奏でるもの(らしい)
その古典派は 疾風怒濤のロマン派へと移り変わっていくのである

古典派を発展させたのがベートゥーベンである
ハイドンに師事した彼は鼻っ柱が強く 
ハイドンをも 師として扱わない言動もあったようである

その後半生に ロマン主義を開花させたといわれるシューベルトが
登場する
ロマン主義というと やや浮世離れというか 恋愛至上主義というか
私見ではディレッタントな雰囲気が漂う
シューベルトはウィーンの”のらくら者”だったそうである
有名な逸話に、

ベートゥーベンの葬式に列席したシューベルトは
そのあとの酒の席で
「まずは 1杯めは故人(ベートゥーベン)に、
そして2杯目は 次に死ぬ人に乾杯!」と軽口をたたいた

この翌年 彼は故人となる

シューベルトの生家は、ウィーン九区ヌフドルフ54番地である
生涯夢見がちな彼は 
「おれが死んだら ここに札が立つだろう」といった
友人に「有名になればね・・」といわれ
「貸間ありっていう札さ」とうそぶいた という
このあたりの家賃はそれほど高くなかったらしい
ヌフドルフの目と鼻の先に、ジグモンド・フロイトの診療所があった
夢見がちなシューベルトと
夢を(いわば)切り刻んだ思考の持ち主の場所と程近いのは
なにかの因縁だろうか・・・

そのフロイトの診療所を
大作曲家 マーラーはどんな面持ちで訪れたのだろう

ロマン派のあとに続く音楽の近現代化を背負ったマーラーの
重い足取りが偲ばれる

マーラーは事実 ノイローゼであった
ウィーンでの音楽家としての活躍はあったものの
かれの作曲した前衛的な曲はすべて受け入れられなかった

池内 紀氏は、ドイツのモルデン書店の名著
(ウィーンには、19-20世紀にかけて絢爛豪華な芸術家や思想家の活躍があるものの
伝えるのはドイツやアメリカである)
「巨匠の栄光と悲惨」叢書を文字って
「巨匠の栄光ある悲惨」と評している

マーラーの悩みは悲惨なほど深い
まずは華々しくみえる宮廷との軋轢がある
厳格な性格のマーラーは、
開演に遅れて到着した ある大公を入場させなかったという
芸術の名においての行動であった

完全主義といわれる彼は
「わたしは 芸術のために全力をそそぐ
 そして、他人にもあらん限りの緊張を要求します」
といった

ベートゥーベンの後継を脅迫観念としてもっていた
マーラーがフロイトの診療所にやってきたのは
どのような悩みだったのか

俗な音楽が自分を苛むとノイローゼ状態をうったえ
フロイトはマーラーの幼年期にその原因があるとしている

ここで
マーラーの妻にご登場ねがおう
マーラーの妻 アルマ(おっと今エンマと書きそうになった)
は恋多き乙女として有名である

アルマも作曲家であった

大作曲家ツェムリンスキーに師事したが
これも恋仲だったとされる
ツェムリンスキーの前には
あの有名な画家グスタフ・クリムトも彼女と深い仲だった
ツェムリンスキーとの関係が切れぬ前に
マーラーの子を身ごもり結婚する
妻となる前に、
マーラーにこんなことをいわれた
「私の音楽をあなたの音楽ととらえることができませんか」
もう作曲はやめて欲しい 俺の妻になれということだ
才能溢れる人にしか言えない粋な台詞だが
私見では ツェムリンスキーとの断絶が見え隠れする

マーラーの死後もいつも才能ある男がそばにいた
画家ココシュカが「風の花嫁」という作品を残しているが
これはアルマとの性生活を描いたものだという
ココシュカは彼女との生活がよきときには
色彩豊かに同じような題材に色付けし、
だんだん悪化すると灰色の色づけをしていった
ココシュカは 疾風怒濤”シュトルムウントドランク”
の疾風という雑誌の主催者である

アルマは
ココシュカ以外でも
詩人のハウプトマン 建築家クロビウスとも
浮世を流している

厳格に見えるマーラーの影には
悪妻ともいえるアルマがいる

マーラーの悩みは、ロマン主義を発展させ
それを超越し、新たな音楽を作り出すことであった
認めてもらうために彼はユダヤ教も棄教している

しかしその実 アルマに振り回され、作曲もさえぎられること
しばしばであったろう 
そしてだからこそ 自らを奮い立たせたことだったろう
崇高な作曲とうらはらに通俗的ゴシップ的な妻の浮気という悩み

フロイトの門をたたいたのは
実はアルマのこと(も)を相談したという

フロイトは、
「彼女は男性に彼女の父親を求めている。
それはあなたにもいえる」と答えた

こののち、マーラーは妻アルマに再び作曲を薦めている
アルマは心臓病で病床に伏した彼の終生そばに寄り添うこととなった
1911年5月18日 ほぼ100年前 に
早すぎた巨匠マーラーは ウィーンでこの世を去った

posted by ぴよぴよ at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月09日

空想的江戸回顧主義

政治経済について
めちゃくちゃな空想提案をしてみた

着想元は、マルクス、アダム・スミスなどの
経済学のお歴々ではなく
祖母の生活の仕方をみて感じたことにある
幼少のときなので、子供っぽいところもある

 詳細な背景は
  拙ブログ「トイレの神様とヘシオドス」
  http://piyo1019.seesaa.net/article/182626610.html
 を参照していただければと思う

 そもそもが回顧主義である
 だから昔に思いをはせ江戸をモデルとする

■経済の基本的構造については
    江戸の循環経済をモデルとする

  これについては、
    拙ブログ「不景気の理由」
    http://piyo1019.seesaa.net/article/114386845.html
  を参照いただければと思う

 簡単にいえば、利潤はゼロにしてしまおうと思う
 すべて税金を納めたあとは、使い尽くしてしまう(蕩尽)
 そうすれば金はたまらないが、矛盾も起きない 
 
 ○原則 預貯金禁止
   銀行がつぶれてしまうが そこは代執行権をもつ業務は残す
   まぁ 最大多数の幸せ(ベンサム)のため痛みはともなう

 ○1年で決算し翌年はゼロ円からスタート
   じゃあどうやって 年明けは会社いくんだ?
   →正月用に隠れて貯金するのは大目にみる →!解決!

 ○旧暦(太陰暦)にあわせる
   季節がわかりやすい
   
 ○地産地食の推進
   地域ならではの食べもの、物産

 ○身分制度 年功序列
   マルクスが唱えたことは実践が難しく
   強大な官僚機構をつくってしまう 
   
   この空想も教育が必要 すべてはバランスが必要→難しい
   実現には宗教並みの求心力が必要
   このため 年功序列を身分制度とし復活する
  
■エコロジスト的な生活が実現
 
 そもそも江戸をモデルとするだけあってエコな生活が実現可能である
 囲い込み(エンクロージャー)的な発想である
 その分を調整役として
 国が外貨を特別に貯蓄できる調整役を果たさねばならない
 原子力は作らない
 風力、太陽光発電が基本 それ以上は使わない 夜は寝る!
  

■身分制度を復活させるが気分としては 
 農→工→商→士
 
 食べるという基本を大切にする
 →食料自給率をあげる
 兵役ではなく 農業従事を義務化する
 バランスよく 効率化のための工業化を促進する  


■年金対策
 無理だから対策しない
 貯金がないから 死ぬまで働く が 基本
 → 是正策として農業指導や人生指導に金を払う
   だから年功序列
 

■教育対策
 技術指導を徹底
 → 理系離れはまずい
 
■年一回はどんちゃん騒ぎ
 祭りの復活
 大晦日から正月は余剰のすべてを使い尽くす
 貯蓄しようという輩のために 収税請負人が監視する
 新たな一年が始まる
 みんな貧乏
 
 
 
posted by ぴよぴよ at 13:10| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月02日

遠くのこと近くのこと

もともと杞憂とは
心配の必要がないことを心配することからの故事である

世界経済とか
為替がどうとか
どこか遠い国で苦しんでいる人や
虐げられている人がいる
情報さえ入らなければ
なんの悩みはないのに
情報がそこへ連れて行って悩みを増やしてしまう

私は草の根で生きているため
これらの情報について対処に困る
やはり
私も人の子なので
そういった情報をきけば悩む

たまにそういった遠い情報が
契機で人生を考えたりすることもあるから
不要とはいえない

全体をとらえることは
自分の位置を確認するためである
悩むため行動を起こすことではない
遠いその国に友人がいれば
話は別で行動を起こす動機になる
また
似たような思いを自分がしていて
似たように苦しんでいる人がいるときけば
行動を起こす動機となる

そうでない限り
情報はニュートラルなもの
無機質透明なものとして通り抜けてしまう

このように書くと、なんて非人道的なんだ
自分のことしか考えてないのか
独我論的な発想だといわれるかもしれない

それはそのとおりであろうから甘受しよう

鯖の缶詰を食べた 熱々にして食べた
しかし被災者の方は冷めたものを召し上がるのかもしれぬ

冷めた鯖の缶詰を食べると生臭さがあり
おいしさは半減する

そのときの微細な感覚、胃の反応
嗅覚、味覚のすべてで
鯖の冷めた感触を感じる

そのときに積もった瓦礫や
流された家、泥だらけの道
それを弱弱しくふみしめる長靴
などがいっせいに 目の前に襲ってきた

まさにこの感覚こそ第一次的な
情報である
とらえることや位置を確かめるためではない
判断やら解釈を超えた何か
根源的な何か
であった

この感覚を大事にせねばならない
と思った

今ここをそのまま感じること

考えるのではなく感じること

こうして言葉にすると
失ってしまう何か
その何かのほうが自分にとっては喫緊のものである

全世界からみれば矮小である自分自身と
身の回り
なにげなく放置されたノートや鉛筆
喫茶店でみたドライフラワーやコーヒーの香り
柱のぬくもり
わずかな情報であるが
その
”わずかな”という解釈がもはや不要に思う

そういった身の回りの感覚

たまに稀人(まれびと)のようにやってくる
とおくの世界情勢という
バランスが大事であろう

世界情勢を憂いてもしかたがない
今ここをしっかり感じ取って
暮らしていこうと思った
posted by ぴよぴよ at 08:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月26日

IT&PHILO(序文)

約1年ほど前に、生命とは情報であるという極論を書いた
そういったもののいいかたが 気に入っていたが
今思うと 誤解されがちな言い方である

情報という言葉に対して 生命は限りなく重い

今回の震災に対し
そんな捉え方は役に立たないし、非人間的である
まさにそのとおりである

人間の思想の中にはいささか非人道的な
ものの見方が存在する
コンピューターの誕生は私は世界を閉じ込めたい
あるいはコード化したいという流れや欲望の具現化
だと思っている
社会、世の中の出来事をデータに写像し
そのデータを操るとまるで社会を操っているかのようだ

身近な例ではキャッシュカードだろう
まさか銀行口座ひとつひとつに 金庫があるわけでなく
残高というデータが身代わりになっている
札束が移動しなくても残高というデータをいじると
口座の金は増えたり減ったりする

この感覚を無限に広げると
出来事をコード化できるということを考えつく

そして大事なのは順番だ
コンピュータが世の中を変えたのでなく
もともと人間の欲望の中にそれはあったと考えている

そのあたりを まずは探っていこうと思う

さらにその欲望の先には
普遍という概念に対する 憧れも
入っていることと思う
それを鑑みたい
posted by ぴよぴよ at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月21日

震災のときにできること

こんな話をききました

夫は 職場の友達に、麻雀に誘われました
ちょっとだけだよ と 友人にいい、
奥さんにもすぐに帰るからと電話します

麻雀になると
友人たちはとても楽しそうに
もう一回もう一荘と 盛り上がってきてしまいます

奥さんから 携帯電話が鳴ります
みんなが冷やかしたので
夫は恥ずかしくなって電話を切ってしまいます

そんなこんなで やっと帰ったのがもう午前様
とても怒ったのか奥さんは不在です

ところが
朝になっても帰ってこないので
夫は必死で探します

そして 奥さんの実家から
「奥さんが交通事故でなくなった」ときかされます

夫に連絡が途絶えてしまったので
奥さんは知人宅を一軒一軒まわりました
雀荘も回りました
その途中で事故にあわれたときき、
夫は呆然とします

気がついてみると夫の携帯電話に
留守電の表示・・・・

きいてみると

「今日は 二人の結婚記念日だから
どうしても会いたい
麻雀で楽しいのなら やめなくていいから
私もそばにいさせて欲しい
どこにいますか
場所だけでもメールしてください」

・・・・・・・

このときの夫とは境遇は全然違いますが
不慮の事故で最愛の人を亡くしたというのは共通点があります
そして 最愛の人が最後に残してくれたものがあることも


■夫の最後の贈り物、指輪に誓う「娘と強く」
(読売新聞 - 03月20日 03:03)
http://www.yomiuri.co.jp.cache.yimg.jp/national/news/20110319-OYT1T00925.htm


最愛の人をもっと大事に思うこと
最愛の人がそこにいるだけで人生がどんなに変わるか
を認識しなおすこと・・・
それも 震災のときにできることだと思います
大事に生きていきましょう!
posted by ぴよぴよ at 01:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月20日

リセット

今、自分の夢を整理しようとしている
もう一度 やる気をリセットするためだ

「やりたいこと100」や「10年後の私」という作業を
やることで 自分の人生の地図の中の立ち位置を
把握できるようにするためだ

モチベーションも再び呼び戻し
コンセプトに沿って軌道修正したり 
無駄な力や悩みも省ける
posted by ぴよぴよ at 21:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月13日

東北地方太平洋沖地震について

まさに阿鼻叫喚の地獄絵図

でも日本で起こっていること・・・
大震災、津波、放射能漏れの
巨大インパクト!!

3月11日の午前中には
何事もなくすごしていたのに
あっという間に・・・

大地は劇的に震え、
人間の無力さを嘲笑うかのようである

それでも、無力であっても
一歩一歩がんばるしかない
自分も一歩一歩 自分の持ち場でがんばるしかない

でもどこか言い訳がましい・・・

福祉と自分との距離だ

自分は福祉をひっさげて
冷たい社会に抵抗する人間ではなかったのか
いちご白書が聞こえてくる

阪神淡路大震災のときは
建設会社にいた
大阪営業所からの報告のレジュメを書くという
超間接業務・・・

そのときに まさに助けを求めた人々がいたのに
無力だった

そして今回も何も動けない
たしかに
本当に現地に入る人はごくわずかかもしれない

でも もし家族がそこにいたら
なんとしてでも ヒッチハイクでもなんでもして
現地に分け入り、声を枯らして 名前をよぶのだろう


ここで自分に真っ黒な闇の疑問が差し込んだ

本当にそうするだろうか・・・
もしそんな状況なら嫌だなという
矮小で情けない心である

どこまで自分は腐った人間なんだろう
心をもっと鍛えなければいけないだろう

そんな感傷などどうでもよく
まさにこうしているこの瞬間に
寒さ、
暗さ、
不安
悲しみに喘ぐ人たちがいる

亡くなった方々のご冥福を祈り
震災にあわれた方々のいち早い復旧を祈願する
posted by ぴよぴよ at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月05日

熊本女児遺棄に寄せて ぶつぶつ

<熊本女児遺棄>なぜ、あんなかわいい子が 最悪の結果に

小児を殺害する事件が 巷を揺るがしている

こういった事件のたびに
世間の反応は なんてひどいことをするのだと怒る

犯人の異常性が報じられ、眉をひそめる
普段の行動が異常ならそれをあげつらう
普段の行動が正常ならそれはそれで
挨拶もしてたのにとか、明るそうだったのに裏ではとか・・・

弁護人が精神鑑定を要求する
そしてマスコミが現代に潜む病理と煽る

気に食わないのは、精神鑑定
判断能力の可否は問題ではないだろう

犯人はたしかに常軌は逸しているものの
衝動にかられていることは間違いない
動機を求めても それでは再発防止につながらない

もっとくだらないのは マスコミの煽りである

この手の事件は、世の中がどんなによくても起きる
不況でストレスがたまった 抑うつした若者など
いつの時代にもいると思う
また、性的な好みがいわゆる異常な人物もいつの世にも存在する
現代の闇のせいだけはない
神隠し伝説など例証は枚挙に暇がない
もしかすると残酷すぎて明るみに出ないだけであったのかもしれない

防御策であるが、100%は不可能であろう

なぜなら、衝動を相手にするものだからである
根本的に解決できるのは宗教家の領域になってしまうのかもしれぬ

ただ・・・

かつては 町内一人は 嫌われるオッサンがいた
いつも ガミガミと怒る
(彼も今思えば、抑うつをかかえた中年かもしれない)

親でもないのに いちいちウザイ存在ではあった
だが このオヤジさんは、今思えば
街の警護に一役かっていたのかもしれない
いつも、若い子供の挙動を気にし、親がいないところでの子供の行動を
監視してくれていたと 考えてもいいだろう

会社にも嫌なやつがいた
やたらと決め付け、人の話は聴かず 
突っ走ってしまう どてらい奴 みたいな上司

バブル後のリストラでその半数が消え
予備軍は肩身を狭くした

コンプライアンスの殺菌作用で完全に息をひそめてしまった

街からは、ガミガミオヤジも消えた
人の行動には、プライバシーとの名目で
あまり関心をもたなくなった

オヤジ狩り、や切れやすい若者の逆襲にあったのだ

そのためというのは あまりに論理飛躍しすぎだが
人の子供でも叱るという光景が
だいぶ減ってきてしまったいると思う

子供は核家族で育てるものではなく
共同体で育てるものだという慣習は消えうせつつある

その結果 子供は受難である
(母による子供殺害のような痛ましい惨劇など)

メリットデメリットは
いつの世にもある

世間の目、というか、 親が子供から目を離しても
だれかが子供を見てくれるという存在

それが監視カメラだけでは あまりにも 無味乾燥である

命はかけがえのないもの

というなら プライバシーというデメリットは
少し 許容してもいいのかも知れぬ

書き散らしすぎたのでまとめると
現代にも昔にも小児に対する性的病理は存在する
ということから、完全に現代病のせいにしても的外れであろうし
解決には向かわない

お前おかしいよ!という抑うつはもっと監視の目があってよく
監視の目に対して満足するので
実際の行動に及ぶことも少なくなるのではという 自分勝手な持論

それから、
監視の目という装置は根源的な警護の機能をもっていたという
懐古趣味を展開してみました・・・
学術的な考察もブログにしました。
http://piyo1019.seesaa.net/article/189069012.html







posted by ぴよぴよ at 18:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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